クラスで振りを取るのが遅いので、ついていくのが必死です。
リズム感が悪くて、なかなか早く理解ができません。
というような類の相談や、それに似たケースは多々聞かれます。
振りを取るのが早くなること、なかなかそこはすぐに上達しません。
持っているパソのストックが増え、アセントを聞きわける耳が育ち、理解したことを身体に伝達するコントロールが養えるのは、何の気負いもせずに初期からそれができる人もいれば、相当な努力が必要な人もいます。
けれども、フラメンコを教えてきて、生徒の中でいわゆる相当器用だった人は、始めてわずか数カ月で辞める人が多かったのも現実です。私がお会いしたそういった能力のあるかたは、長続きせずにすごくもったいないと思いました。面白味を感じる前に、技術としては出来てしまうから、心で「感じない」のでしょうか。
長くフラメンコを続けている人たちの多くは、続けることによって、それの持つ魅力を充分に味わうことのできる感性の持ち主であったり、努力してコツコツ積み上げることのできる人たちです。ひとつのことを深く知ろうとする探究心もあります。
さて、教室の中では優等生でいられないと、舞台上でも華開かないのかと言えば、この世界は全くそうではありません。教室内での出来不出来と舞台とはあまり関係がないと思います。
発表会などを見に行くと、上級生クラスの踊りに心打たれるかというと決してそうではありません。
キャリアの少ない人たちのクラスの踊りに大感動することがあります。
高度なテクニックを駆使した踊りに感激するばかりではありません。
難易度は低い技術を使いながらも、しっかりと丁寧に伝えてくれる踊りに心は掴まれます。
フラメンコの、何を大事にするか、丁寧に感じて踊っているか。
そういうところがとっても大事だと思います。
ところで、芸術なのだから、自分の言いたいこと、自分の感情をストレートにぶつけてもいいのか、というとそうでもありませんね。
さまざまな芸術のなかで、なぜフラメンコを踊っているのか。自分を伝えたいのに、絵ではなく、ロックではなく、ピアノでもなく、モダンバレエでもなく、フラメンコを選んでいる。
そうしたら、フラメンコのフラメンコたる要素が先か、感情が先か。コンパスを外しても、心を伝えるか。マルカールにペソがなくても、自分の生きざまを示したいか。
やはり、フラメンコであることは外してはいけないと思います。なので、テクニックを着実に身につける訓練をするのです。
クラスで振りがとれない、というところに戻りますと、クラスで取れた部分だけでもしっかりと身につけていくことが大事だと思います。雄弁にあれもこれも語る必要はあるかと言えばそうではなく、一つのことをしっかりと伝えること、説得力のある踊りをすること。ただ、クラスでは、クラスという性質上、振りがとれなくてあたふたしていると注意が多く飛ぶこともあるので、それは甘んじて受け止めなくてはいけないかもしれません。しかし、注意というより、早くとるためのヒントを先生は言っていることのほうが多いので、素直に受け止めてそれを実行するように努力していくと少しずつ早く取れるようになると思います。
もし、クラスで振りが早くとれた時には、それに満足しているだけで終わるのはまだまだもったいないです。
自分がスペイン人のクラスを受ける際には、振りをなるべく早く身につけて、そのあとには、そのアーティストがその振付を通して何を言わんとしているのか、アセント、センティード、アイレ、前の振りとの流れ、等々そういったことをじっと観察するために目と耳を凝らしています。振付を覚えるだけになっていると、他に学ぶフラメンコとしての大事な要素が抜け落ちてしまい、結局、「自分なりの解釈」をしてしまっているのに「これが自分の踊りです。これが私の個性です。」として踊っている姿が見受けられます。としたら、そのアーティストに直接習う意義は無く、他の人からでも振付のみ習えばいいことになってしまいます。
クラスでは学ぶことが沢山あるのですね。自分も学ぶ立場として思うのは、良いクラスというのは、フラメンコの宝石のようなものがちりばめられているので、アーティストのどんな些細なしぐさや言葉からも何かを感じ取って学ぶ集中をしていたいと思っています。