昨日で、今年のフラメンコ協会新人公演が終わりました。
一昨年の開催中止、昨年の無観客を経て、今年は有観客にて行われました。
出演者をはじめ、関係者のかたがたのご苦労は計り知れなかったと思います。
というのも、舞台関係者側(出演者、関係者、お手伝いの人など)はすべての人がPCR検査を事前に行っての開催だったそうで、内心だれもが、「誰か出れないんじゃないか」と考えていたと思います。
しかし誰一人欠けること無く、この公演にかかわれたそうです。
今年は、愛弟子が参加するので、衣装選びから、練習の様子まで少し関わりました。
少し、というのは、遠方のため実際に見ることはできず、動画を送ってもらったり、オンラインでつないでアドバイスしたり、という形でした。
本番までの闘いを見ているので、彼女が堂々と自分のフラメンコを踊ることができて感無量です。
さて、第31回ともなると、自分が出演した第5回、第6回は遠い昔のことで、クラス中に、「私の時は、こんなだった」という話をすると、
「へえ~~!!!」
となることも多いので、いろいろと思いだしてみようと思います。
私は、大学卒業してすぐにスペイン・マドリードに行き、この新人公演に向けて1年3か月で留学を終え帰国しました。いろいろな事務手続きは、故本間三郎先生にお願いし(メールなどありませんから、もちろん手紙で)、ギタリストやカンテのかたに連絡をとっていただきました。
帰国しても、東京に住まいは無いので、実家の愛知からエンサージョのために上京してました。本番近くになると、大学の演劇科時代の友人の家に転々としていました。練習のスタジオに向かうときに、友人が駅の券売機に小銭を入れてくれるなど、全く収入が無い状態なので、周りの人が救ってくれました。
このころは舞台経験が豊富でないので、(1,2回の発表会と、大学サークルでの発表、などなど)こんな大舞台でのソロは当然初めてです。しかし、若いということは、怖いもの知らずで、、、前の人が踊っている舞台袖で、一か所振りを忘れてしまい、どうしても思いだせず、その場で振りを作り直して、本番を踊りました。
その年は受賞しませんでしたが、翌年は、内容をよく練って本番に臨みました。この時は、先生に新人公演の踊りを見てもらうことを頼んでいなかったので、すべて自分で行いました。この年はシギリージャを踊りました。割と革新的な年で、同じ受賞者には、ジーンズで踊った人もいたり、私もフラメンコのフリフリ感をなくしたモダンな衣装で出演しました。スペインも「モデルノ」という現代風な振りがだんだんと浸透してきたときで、私もそういう影響を受けた振りでした。
終わった後、大学のサークル時代の後輩と中野ゼロの途中道にあるシャノアールでお茶をしていると、そこで同じくお茶していた新人公演を見た人に「よかったです!」と言ってもらえたりしました。
自分でも、今年は賞を狙えるんじゃないかと思っていました。このころは、選考結果が協会の留守番電話に吹き込まれている、という時代で、ドキドキしながら協会に電話をし、自分の名前が読まれるのを何回も聞いたものです。
その時のバイレ奨励賞受賞者はみな20代だったと思います。4人中3人は、マドリ―留学時に一緒だった人でした。
その頃は、新人公演で賞を取った人、という紹介のされ方で、お仕事をいただけるようになったり、だんだんとフラメンコで生計を立てることができるようになっていきました。併行していたアルバイトもなかなか楽しいものばかりだったので、物理的にできなくなるまで結構続けていましたが。
どの業界でもそうだと思いますが、日進月歩レベルは向上し、賞をとるのもなかなか難しくなってきています。その分、道のりは長く険しくなり、それぞれの人のかけがいのない物語が生まれます。私の時代から変わらない、シャノアールのある中野ゼロへの坂道は、たくさんの挑戦者の足跡が刻まれているのだと思います。